戸隠の歴史

大久保西の茶屋 戸隠の歴史
大久保西の茶屋 戸隠の歴史

戸隠の歴史

寛永元年より受け継がれた

戸隠の歴史、大久保西の茶屋の歴史

戸隠連峯は長野県西部に位置し西岳(2,035メートル)から高妻山(2,353メートル)に至る峻険な山なみです。

岩肌を露に切り立った崖は奇怪な風貌で、容易に人を寄せつけません。

神秘的な山容はやがて日本の三大山岳信仰の一つとして全国にその名を馳せました。

戸隠の歴史

戸隠に修検者が入ったのは平安時代の嘉承二年(849年)のことで真言宗の山岳密教の伝道者と言われています。修験者は学問行者と呼ばれ、やがれ戸隠顕光寺を中心に、その数は年ごとに増加の一途をたどり平安時代末期(1200年)には、戸隠三千坊と称されるにいたり諸国の山伏達が集まってきました。早い話修験者のメッカとなったのです。

戸隠連峯の東側の裾野に広がる台地(戸隠高原)(1000~1200メートル)は豊かな水に恵まれています。

古い時代から農耕民はこの水は九頭龍大神によって管理され、又戸隠一帯はこの神に支配・守護されているものとして奥社に九頭龍社を創建、信仰を集めてきました。

修験者達によって栄えた戸隠は、やがて天台宗と真言宗の対立、上杉対武田の戦乱等により次第に衰えてきました。西暦1600年以降、徳川の代になり朱印状(幕府の保証書)により千石が一山に与えられ天領となりました。

この結果、地位は安定しましたが修行道は形式化され、更に明治維新の変革で(1868年)神道と仏教分離の政策が施行されました。

この結果(戸隠の)寺院はすべて廃され僧は世襲制の神官となり、かたわら「宿坊」を営んで今日に至りました。

戸隠 鏡池

戸隠 鏡池

戸隠 中社

戸隠 中社

戸隠 宝光社

戸隠 宝光社

大久保西の茶屋の誕生

大久保西の茶屋を経営する小林家は、現当主12代、次期当主13代になります。

小林家の先祖(初代)は松代藩に仕え”茶坊主”の職にありました。

関ヶ原の合戦(1600年)後の慶長8年(1603年)徳川幕府は戸隠一山を統治している久山候に朱印状1000石を交付して天領にしました。そして松代藩の重役が幕府と戸隠一山との連絡役にあたりました。松代藩の茶坊主であった小林伊左衛門喜代七は、この重役の供の一人として(戸隠へ)入山したのです。

初代喜代七は、松代へ帰ることなく、戸隠神社の「お庭番」として、この地に残されました。

二代目も、同じ庭番として仕えます。

寛永元年(1624年)三代目喜代七は一山の命により、戸隠入山の起点に秘密会議所兼休憩所となる屋敷を建設しました。これが大久保西の茶屋の總本家です。

茅葺き(かやぶき)屋根で書院造り、要人が寝泊まりした部屋の床の間は、緊急時に戸外へ脱出出来るような仕組みになっていました。

又、この屋敷は”休憩所”という名の下に、諸大名や武士が利用することから当然のように葛藤の絶える間がなく、再三にわたって焼き討ちが、かけられたそうです。

現在、残されている建物は、明治初年に基き全く同じ造りの建築をなしたものですが、主要部分は改良したり取り壊しをして僅かに二階部分に往時の面影をみることができます。

小林家十三代

茶坊主(ちゃぼうず)とは?

武家の職名。茶道を修得、主に登城した大名の接待役として、茶室・茶沸を管理したり、時には衣服や刀剣の世話もした。

二階部分に書院造りの面影が残る西の茶屋

二階部分に書院造りの面影が残る西の茶屋

二階部分に書院造りの面影が残る西の茶屋
二階部分に書院造りの面影が残る西の茶屋

修験者によって栄えた戸隠は、やがて天台宗と真言宗の対立、上杉対武田の戦乱等により次第に衰えてきました。西暦1600年以降、徳川の代になり朱印状(幕府の保証書)により千石が一山に与えられ天領になりました。

釜鳴屋名付けの由来

その由来は、第四代目喜代七の頃(1700年代)までさかのぼります。戸隠一帯を取仕切っていた”久山候”は公用の往き帰りに必ず大久保西の茶屋に立ち寄られました。

当時の商品は「力餅」「煮しめ」「山菜」等が主力でした。ある時、久山候が立ち寄られた時、ゴーゴーと台所の奥から耳をつん裂かんばかりの大きな音が響いてきました。

釜鳴屋

久山候「亭主、この音は何か!?」

四代目「この所、餅米(もちごめ)を沸かす時、釜が異様な音を立て困り抜いて居ります。」

久山候「そうか釜が音を出すのか。これは商売繁盛の兆(きざし)に違いない。どうじゃ今後”釜鳴屋(かまなるや)”と名乗るが良い」

大久保西の茶屋

こうして四代目伊左衛門喜代七は釜鳴屋を名乗り、以後大久保の茶屋は、二つの屋号で呼ばれるようになったのです。
釜鳴屋の名称は戸隠神社の古文書にも明記されているとのことです。

大久保西の茶屋は文化年間(1804年~1818年)になって新たに東隣りに一軒が新規開店、これを「大久保東の茶屋」(現在の大久保の茶屋)と名付け、本来の釜鳴屋を「大久保西の茶屋」と呼ぶことになり共に街道の茶屋として今日まで栄えて参りました。

大久保西の茶屋は、武家衆の会議所的な性格から年ごとに休息所、食堂として形態が強くなり武士ばかりではなく一般の人達にも利用されるようになってきました。江戸中期から明治まで(1750年~1900年)は今流でいう總合商社的存在で、茶店営業のかたわら、酒類や米穀類を新潟県上越地方から仕入れて販売していたとのことです。

古い家には、伝説があるもので御多分に洩れず”西の茶屋”にも幾つかの話が伝えられています。農家造りの店の横にある「山梨」の老木にまつわる話、店の裏の小さな祠の中の九頭竜神の話等楽しい物が数多くあります。

小林家十二代は、女系家族で第十代と現在の十二代が嫁を迎えましたが残りは、すべて婿取りでした。

現在の「大久保の茶屋」は、昭和42年頃まで”東の茶屋”でした。”西の茶屋”の12代当主(現在の社長)が昭和42年から2年間、家業を継がずに休業した為、東の茶屋は「大久保の茶屋」と改名して営業を続け今日に至っているのです。なお両家には姻戚関係ありません。

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